「外で待っててくれる?もうすぐ休憩だから、近くの喫茶店でお茶でも飲もう」
お兄ちゃんがそう言うので、由香は外に出て待っていた。
「ごめん、お待たせ。あそこ、いつも休憩のときに行く喫茶店なんだ」
しばらくすると彼が一軒の喫茶店を指刺しながら出て来た。それはコンビニの先から続く商店街の入り口にある、古びた喫茶店だった。
店に入り、お兄ちゃんはコーヒーを2つ注文した。
マスターは、コーヒーをテーブルに置く際
「休憩かい?」
と彼に声をかけ、由香には
「ごゆっくり」
と言って下がっていった。
由香はいつも通り、スプーンをソーサーの奥に置いてブラックで飲み始めた。お兄ちゃんは、砂糖を2杯、そしてソーサーに置かれた小さなミルクポットに入ったミルクを、全て入れてかき混ぜた。
それはいつもと何も変わらない光景だった。
しかし、その日の二人のあいだには目に見えない厚い壁があった。
話したいことがいっぱいあったはずなのに、彼を目の前にしたら、その壁が邪魔をして由香は何も口に出せなかった。
「なかなか連絡が出来なくて…ごめんな」
お兄ちゃんがそう言うまで、二人に会話は全くなかった。
「仕方ないよ」
由香は少し笑って言った。
「駅前だから、ものすごく忙しいんだ、朝も昼も晩も。レジに20人30人と客が並ぶなんて、ザラで。もう毎日てんてこ舞い。レジが切れたら品出しだろう?手が空くのはいつも真夜中で。そんな時間に電話するわけにもいかなくて」
「分かってるって。気にしないで。それより身体は大丈夫?無理してない?」
分かってる…いや、分かってなかった。何も分かりたくなかった。本当は『こんなに会えないほど忙しいならバイトなんてもう辞めて』そう言いたかった。
でもお兄ちゃんにとって、バイトは、遊ぶためのお金欲しさではないことを、十分知っていた。
言えなかった。何も。
「ごめん。もう行かなくちゃ。休憩30分しかないんだ」
そういってお兄ちゃんがすまなそうに立ち上がった。由香は結局、何も話すことが出来なかった。
「ごめんね。急に来て」
「ううん、嬉しかった。ありがとう。また来てよ。先に出るけど、お金は払っておくからお前はゆっくりして行けよ。じゃあね」
「いいよ、そんなことしたら折角のバイト代が…」
と、由香は言いかけたけど、お兄ちゃんは伝票を持った手を振りながら、小走りで行ってしまった。
レジでマスターにお金を払うと、こっちを指差してあの子はもうちょっといるからと言うようなことを言い残してお兄ちゃんは店を後にした。
その後ろ姿を見送った後も、由香はしばらくぼんやりしていた。
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。コーヒーはほとんど手つかずのまま完全に冷めてしまっていて、もう飲める状態ではなかった。
これからもこんな感じなのかな。もう以前のようには会えないんだな。
覚悟はしていたつもりだったけど、悲しかった。
カウンターの奥にいたマスターに頭を下げ、由香は喫茶店を出た。
車に戻り、彼の働くコンビニをのぞいてみた。帰ることだけでも伝えようと思ったが、コンビニのレジには、彼がさっき言ったように、多くの人が並んでいた。お兄ちゃんはレジを打ち、袋に商品を詰め、忙しそうにしていた。
もちろん、由香の姿に気づくこともなかった。
ドライブモードにシフトを入れ、ターンシグナルを右に出し、静かに車を発進させた。
それ以降も彼からの連絡はほとんどと言っていいほどなかった。
たまに店から電話をくれても
「ごめん、お客さん来たから。また電話するね」
と言ってすぐに切られてしまった。
由香の方もシフト表を見ながら受話器を手にするのだが、彼の忙しそうな姿を思い出すととても最後まで番号を押すことは出来なかった。
そんな日々が続いた。