多分、今ここでこうやって話してる彼が、本来の彼なのだろう、由香は思った。
静か過ぎず、騒ぎ過ぎず、相槌を打ちながらお互いの様子を伺う二人。
しかし、その伺いは、いつものように裏の影を見るようではなく、ただ相手を知りたい心から来るものだった。
ふと、由香は思い出し笑いをした。
「何がおかしいの?」
彼は由香の顔をのぞき込んで聞いた。
「私ね、初めてのサークルの時、大嫌いだって思ったの、お兄ちゃんのこと。もっと言えばさっき居酒屋で隣に座ったのも、他に空いてる席がなくて嫌々だったんだよね」
「なんだよ、それ。ひどいな。俺、まだおまえと一言もまともに話してなかったのに?」
「うん、そう。けど、あのときの自分が、今こうやってお兄ちゃんに送ってもらって、こんな話してるのかと思ったら、人生何があるのか分からないんだなって」
「それはいいことなの?悪いことなの?」
「今のところはいいことかな。そのうちどうなるか分からないけど」
「一寸先は闇、とも言うからね」
二人は大声で笑った。
由香は、今まで誰かとこんな会話をしたことがなかった。
いつも、たいていは口を開いていた。
友達の口から出る話は、ブランドだのタレントだの、由香には興味の持てない話ばかりだった。しかしその話に乗り、それが楽しいフリをした。時には、先頭に立ってそんな話をした。
それは他でもない、自分の心中を知られないようにするためだけの、まさに演技とも言える会話だった。
そして人に向ける笑顔は、いつも厚すぎる仮面を被った顔だった。
悩みなんて一つもありません、というような、楽天的な態度は、実は由香の抱える本質の真逆だった。
そんなことをして意味があるのか、よく分からなかったけど、本当の自分を誰かに知られるのが怖かった。
しかし、その日の由香は、笑いたくて笑っていた。そして、話したくて話していた。
それは仮面の笑いではなかったし、心の底から楽しかった。
今まで男女ともにそんな人に出会ったことはなかった。
表面上仲良くしている友人もいたが、心底の話をしたことはなかった。
もちろん、自分の寂しさや苦しさや辛さや、そんなものを見せたこともなかった。
楽しい時間は、あっという間に過ぎてゆき、家に着いてしまった。
「うち、ここなの。ごめんね、また30分以上歩かせることになるけど」
「大丈夫。今日は話せて良かった」
「こちらこそ、ありがとう。気をつけて帰ってね」
由香がそう言って玄関の扉を開けようとしたとき、お兄ちゃんが声をかけた。
「また今度電話するよ。じゃ、おやすみ」
うなずきながら手を振る由香に、彼も手を挙げて帰って行った。
そのとき、心にチクッとした痛さを感じた。
それは生まれて初めての切ないという感情だった。