雨の街角

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第六章 苦悩 〜ノボルとお兄ちゃん〜

「もしもし、由香?突然だけど、私、この前から吉川君とつきあってるんだ」
電話の主は、純子だった。
「え?吉川君と?」
「うん、あの合コンで意気投合してね。幹事の由香には報告しておこうと思って」
純子は、ノボルと出会った合コンに誘った、高校時代の友達だった。
そしてノボルと吉川君も、高校からの友達だった。由香と純子は別の学校に通っていたが、吉川君とノボルは高校を卒業した後も、同じ学校に通っていた。
ノボルが以前組んでいたバンドの仲間でもあり、ノボルは吉川君のことを親友だと話していた。
コンパの時、ずっとぼんやりしていた由香は、純子と吉川君の様子など、全く見ていなかったので、純子の話には正直驚いた。

「吉川君とノボルくんって仲がいいんだって?今度4人で遊ぼうってことになったんだけど。ダブルデートってやつ?」
純子はそう言って、嬉しそうに由香を誘った。
「純子たちはつき合ってるのかもしれないけど、私とノボルはそんな関係じゃないよ」
そう言って渋る由香に、純子は冷たく言った。
「由香、まだお兄ちゃんのこと引きずってるの?もう、彼のことは、いい加減あきらめた方がいいって。ほとんど会ってないんでしょ?連絡もあまりないって言ってたし。つきあってるのなら、普通あり得ないよ、そんなの。冷静に考えてみなよ」

お兄ちゃんと会わなくなってどれだけ経っただろう…
「もう他に女が出来たんだよ、きっと。由香だって薄々そう思ってるんじゃないの?」
純子はたたみかけるように言った。
彼女は、お兄ちゃんから連絡がなくなってきた頃、心配して遊びに誘ってくれていた友達だった。だから、由香とお兄ちゃんとの経緯をだいたい知っていた。
その純子がここまで言うのだ。いや、純子が言う前から、由香も心のどこかで思ってはいた。
彼から連絡がないのは、バイトが忙しい、ということだけが原因じゃないのでは?と。
純子が言うように、他に女が出来たのかもしれない。そうじゃなかったとしても、自分に対する興味が薄れたことだけは確かだろう。
あれだけ頻繁に連絡があったのに、急に途絶えてしまったのは、明らかにおかしい。

数日後、純子の提案通り、ノボルと吉川君と純子、そして由香の4人で飲み会をやることになった。
ノボルと吉川君はバンドを組んでいただけあってとても歌が上手く、飲み会の後に行ったカラオケは、大いに盛り上がった。
ほんの少しだけ、由香は現実を忘れられた。

純子たちも交えて4人の時もあったが、由香はそれからもほぼ毎週ノボルと会っていた。
ノボルは、どこかしらお兄ちゃんに似ていた。女の子のように可愛い外観や、車よりもバイクが好きなこと、モテるだろうと思うのに、イマイチ女の子に馴れていないところ…
出会いからして似ていた。誘われて嫌々行った場所にいたこと、興味のない由香にしきりに話しかけてきたこと。
悪いとは思いながらも、由香はノボルとお兄ちゃんを重ね合わせていた。



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| 2017.10.15 Sunday | ニタモノドウシ | comments(4) | - |
第六章 苦悩 〜少しずつ動き始めた心の時計〜

「由香ちゃん、つきあってる人いるんでしょ?なのに、どうしてそんなに元気ないの?」
というノボルの言葉に、由香はポツリポツリと話し始めた。
つきあって半年。彼はバイトが忙しくなって、なかなか連絡をくれなくなったこと。寂しさをまぎらせるために、努力はしてみたけど、何をしても駄目だったこと。
それでも、彼をずっと待ってること。
「そっか、それは寂しいね。つきあってるのに片思いか」
「あなた、上手いこというね」
由香はちょっと笑ってみせたけど、ノボルは笑っていなかった。
「よし、じゃあ、俺がピンチヒッターっていうのはどう?」
「え?何?どういうこと?」
「その会えない彼氏の代わりを、俺がするって言ってるんだよ。何を言ってくれてもいいよ。行きたいところがあったら、どこにだって連れて行ってあげるし、したいことがあれば、何だってつきあう」
ノボルはキラキラした目で言った。
「ごめん、そういうのはちょっと…彼の代わりはどこにもいないから。私は彼じゃないと駄目なの」
由香は下を向いた。
今の自分の心と、ノボルの輝く瞳は、あまりにも対照的で、由香には彼の瞳が痛かった。

「そう…だよね。分かった。ごめん。確かに彼の代わりは俺には出来ないよね」
ノボルはしばらく黙った。あきらめてくれたかな?と思った時だった。
「じゃ、友達と遊びに行くって思ってよ?もしそれさえ嫌になったのなら、はっきりと嫌だって言ってくれればいいから。一人きりで寂しく家にこもってるだけじゃ身体に悪いって。ね?そうしようよ」
乗り気はしなかった。でも、このノボルの強引な、要求に近い提案を蹴散らす元気が、今の由香にはなかった。
「じゃ、友達としてね。私は、電話が好きじゃないし私からかけることは絶対にない。友達関係も、かなり頑張ってくれないと成立しないほどの不精者だよ。それでもいいの?」
「もちろん、それでいいよ。ありがとう。俺のことはノボルって呼んで。俺も克己が呼んでいたみたいに、由香って呼んでいい?」
ノボルはとても嬉しそうにはしゃいでいた。

それ以来、ノボルは日曜日になると朝からやってきて、いろんなところに遊びに連れて行ってくれた。
時には、たった5分話すだけのために、片道3時間をかけて来てくれた。
「1時間電話で話すよりも5分でも顔を見て話せる方がいい」
と、ノボルは笑った。
ノボルの家は、由香の家と片道70キロ離れていた。おまけに二人の家を行き来するには、片道1車線しかない狭い国道しかなく、もちろん、高速道路が走っている訳でもなく、渋滞してしまうと片道5時間近くかかることもあった。
それでもノボルは、朝暗いうちから車を飛ばして来てくれた。

不思議なことに、止っていた由香の心の時計は、それから少しずつ確実に動き始めていた。お兄ちゃんだけだった心は、他のことを考える余裕を持つことが出来た。
でもそれは、決してノボルを好きになるということではなかった。

友達としての興味しか持たない由香に、ノボルはとても優しかった。
由香と会う時間が減るから、とノボルはボーリング場のバイトを辞めてしまった。
「そんなことしたら困る」
と、何度も言ったのだが、彼は聞かなかった。
やはり、始めの印象通り、かなり強引な人だった。



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| 2017.10.10 Tuesday | ニタモノドウシ | comments(8) | - |
第六章 苦悩 〜可愛い顔をして強引な男〜

しかし、ノボルから電話があったのは、そのすぐ後のことだった。
「由香ちゃん?俺、ノボル。さっきは送ってもらってありがとう」
「何でうちの電話番号知ってるのよ?」
「ごめん。克己から聞き出した。どうしてももう一度会って欲しくて」
「私、彼氏がいるから」
「知ってる」
「知ってるのなら…」
「彼氏がいたって友達にはなれるよね?克己だって友達なんでしょ?」
「分かった、分かった。じゃ、あなたと私は友達。それでいいでしょう?じゃあね」
面倒になり、由香はノボルの次の言葉も聞かずに、電話を切った。

その「分かった」という言葉をどう解釈したのか、ノボルは電話を切った数時間後、また電話をしてきた。
「今、由香ちゃんちの近くまで車で来てるんだ。家まで行くから、ちょっと出てきてくれない?」
「あなたねぇ、一体、何考えてるの?困るよ、突然来られたって」
由香は怒りながら答えたが、ノボルは怯んだ様子もなく言った。
「だって、このくらいしないと会ってくれないでしょ?とにかく出てきてね。家の場所は克己から聞いたから」
そう言った瞬間、電話は切れた。
ノボルは、女の子みたいな風貌の割には、かなり強引な男だった。

「汚い車でしょ?由香ちゃんの車に比べたらボロボロ。でもこの車、可愛い奴なんだ。俺の大事な相棒」
由香が彼の車に乗った途端、聞いてもいないのに、ノボルは一人話し始めた。
「車も好きだけど、単車も好きなんだ。夏休みになったら、いつも単車でひと月かけて北海道をまわるんだ。金がなくなったら喫茶店とかレストランとかバイトさせてくれるところを探して、いくらか稼いだらまた出発って感じでね。北海道はそういう単車野郎がいっぱい来るから仲間も出来て楽しいんだよ」
何も言わない由香に、ノボルは一人話し続けた。
「俺、喫茶店で会った時から、一目見て由香ちゃんのこと気に入ったんだ。克己からは、由香は彼氏がいるから駄目だって言われたけど、他の子は目に入らなかったし」
「そう…」
由香は、ノボルの方を見る訳でもなく、ずっと窓の外だけを見ていた。

「今、克己と同じ学校に通っているんだ。って、そんなこと言わなくても知ってるか。でも由香ちゃんは絶対に知らない、すごい話があるんだよ」
そんなことを言えば「何々?」と興味を示すとでも思ったのだろうか。由香は余計しらけてしまい、深いため息をついた。そんな態度にも、ノボルは全く動じなかった。
「これでも、ロッカーでね、俺。今は髪も短くしちゃったけど、バンドやってた頃は、床に着くほど長い髪だったんだ」
「床に着くほど?」
ノボルは『待ってました』とばかりに、由香の方を見て、にっこり笑って言った。
「やっと口を利いてくれたね。良かった。ずっと寂しそうだったから」
「寂しそう?私が?そ…うだね」
由香は窓の外にあった視線を膝元に落としながら言った。
「彼氏がいるって聞いてたのに、寂しそうな顔してたじゃない?喫茶店でもボウリング場でも」
「誰かと賑やかに楽しく騒ぐような気分じゃないの。今日も克己に合コンしようって言われて、嫌々メンバー集めただけだし。彼も、元気がない私を心配して声をかけてくれたとは思うんだけど」
このとき、由香は、初めてノボルと会話らしい会話をした。
「俺、由香ちゃんに見てもらおうと思って、張り切ってスコア230も出したのに、チラッとも見てくれなかったよね」
ノボルは苦笑いしながら言った。
「230?上手なんだね」
「ボウリング場でバイトしてるから。営業が終わった後、練習してるんだ」

可愛い顔して強引なノボルは、こうして由香からすんなりと会話を引き出した。
『そういえばお兄ちゃんとも初めこんな感じだった。全く口を利かない私に、お兄ちゃんはしきりに声をかけてきたんだった』
由香はまた、お兄ちゃんを思い出していた。



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| 2017.10.05 Thursday | ニタモノドウシ | comments(8) | - |
第六章 苦悩 〜克己からの電話〜
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「由香?彼とはどうなんだよ?その後」
克己から電話があったのは、由香がそうやって自己嫌悪に陥っている頃だった。
克己は、お兄ちゃんに「元カレがヨリを戻そうと言って困っている」と嘘の相談をしたあの元カレだった。
先日、克己から電話があったとき、元気がないことに気づかれてしまい、仕方なく、彼とは会えない日が続いていることを打ち明けていた。
「あれからもずっと会ってない…電話もほとんどない」
由香は、すっかり滅入った声でつぶやくように言った。
「もうあきらめろよ。そんな男忘れて、コンパでもやろうぜ」
克己はやけに明るく言った。
「コンパ?」
由香は少し怒った声で言った。
「おまえも、会えない男のことばっか考えてないで、パーっとやった方がいいって」
自分が騒ぎたいというのももちろんあっただろうが、克己も多分、心配してくれているのだろう。
その気持ちが分かった由香は気乗りしないが彼の誘いに応じることにした。
「じゃ、5,6人集めといて。とりあえず元気出せよ。じゃあな!」
克己は楽しそうな声のまま電話を切った。

当日、約束の喫茶店で集合した後、ボウリングに流れることになった。
みんなが楽しそうにボウリングをしている中、由香一人、ゲームにも参加せず、後ろの席でぼんやりと考え事ばかりしていた。
『そういえば、初めてのサークルはボウリングだったな。あのときはお兄ちゃんのこと大嫌いだと思ってたんだ。居酒屋で意気投合するまでは嫌いだったんだ。そのまま嫌いでいた方が良かったのかな』と。

「…な、おい、由香!聞いてるのか?」
克己が声をかけてくるまでゲームが終わっていたことにすら気づかなかった。
「あ、ごめん」
由香はうつろな目で答えた。
「悪いけど、あいつ送ってやってくれよ」
克己があいつと指さしたのは、とても可愛い女の子のような男の子だった。彼は由香と目が合った瞬間、ペコリと頭を下げた。
「何で?克己が送ってあげればいいでしょう?」
由香は、頭を下げた男の子の視線を無視し、克己を睨むように答えた。
「いや、あいつ、おまえが気に入ったらしいんだよ」
克己は由香の耳元でこっそりささやいた。
「そんなこと知らないよ。第一、私はそんなつもりで来たんじゃない。克己だって知ってるでしょう?」
由香はきっぱりと言い放った。
「俺も言ったよ。由香には彼氏がいるって。でもあいつ、聞かないんだ。とりあえず駅までだけ送ってやって。あいつの家、遠いから電車で来てるんだ。な、頼むよ」
克己は言いたいことだけ言って、去ってしまった。
由香は言い返す気力もなく、克己の指示に従った。

「行くよ」
由香はポケットから車の鍵を取り出して、克己があいつと指さした男の子に言った。
そして振り返ることもなく、早足で駐車場に向かった。女の子みたいな男の子は後ろからトコトコ着いてきた。
彼はノボルだと言った。聞いてもいないのに、自分の名前をそう告げた。
由香は全く興味がなかった。
車内でも一言も口を開くことはなく、彼が告げた駅まで送っていくと
「じゃあね」
とだけ言って、車から降ろして去った。



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| 2017.09.30 Saturday | ニタモノドウシ | comments(10) | - |
第六章 苦悩 〜電話を待つだけの日々〜

ある日曜日、お兄ちゃんからもらったシフト表を見ると、ちょうど彼の入っている日だった。
由香はまた、彼のバイト先に行ってみることにした。忙しそうにしていたら、表から彼の姿を見てみるだけでもいい…と思った。
コンビニの前に車を止め、中をのぞいてみると、お兄ちゃんは見えず、バイト店員が2人見えるだけだった。由香は客のフリをして中に入ってみたが、それでもやはり彼はいなかった。
「すみません。今日は新井さん、いらっしゃると聞いたのですが…」
由香は客になりすまし、バイト店員に聞いた。
「今日はシフト変更になったので出てきてないんです。何かご用でした?」
「あ…いえ、ちょっと先日お願いしていたことがあって。でもいらっしゃらないのでしたら、また来ます」
「何か伝えておきましょうか?」
「いえ、結構です。お忙しい中ごめんなさい…ありがとうございます」
「申し訳ありません」
不審がる顔でもなく、アルバイトの店員は笑顔で応対してくれた。しかし、由香の心は複雑だった。
表に止めた車に乗り込み、コンビニを恨めしそうに見つめながら、独りごちた。
『バイトじゃないのなら連絡くれればいいのに。シフトが変わったのなら教えてくれたらいいのに。声が聞きたいのは私だけ?会いたいと思ってるのは私だけなの?』 

お兄ちゃんの家はここからすぐだ。
このまま車を飛ばそうか、それとも電話してみようか。
そう思ったけど、自分からは行かなかったし連絡もしなかった。

それ以降、お兄ちゃんのいるコンビニに行くのはやめた。
変に勘ぐってしまう自分が嫌だった。

それからも、明らかに電話の回数は減っていった。
お兄ちゃんに会えない時間を利用して、彼が好きな作家の本を読み、彼が好きなアーティストの歌を聴いた。
しかしそんなことをしても、彼と一緒に海で本を読んだことや、車で手をつなぎながら聴いた歌のことばかり思い出してしまう。
それらの行動は、会いたさが募るだけで、何の解決にもならなかった。
週末になるたび、もしかしたらバイトを休んで電話をくれるかもしれないと思い、朝から晩まで、電話の前で彼からの電話を待つだけの日々。
しかし、どれだけ待っても彼からの連絡はなかった。

由香は、寂しさをまぎらせるために、休みになるたび友達と出かけるようになった。遊園地、海、ショッピング…毎週毎週いろんなところに行った。
みんなの手前楽しそうに笑ったり話したりしたが、どこに行っても何をしていても気になるのはお兄ちゃんのことだけだった。
家に帰ったら「ただいま」というより先に「お母さん、誰かから電話なかった?」と聞くのだけど「ないよ。あったら言うって言ってるでしょ?誰の電話をそんなに待ってるのか知らないけど…」と呆れられる始末。
由香はもう出かけるのをやめた。
何をしていても、心の中では電話を待っているだけの状態。それはただ辛いだけだった。
それなら家で一人、膝を抱えて電話を待っている方がまだ良かった。辛かったけど、そんな状態で笑うよりはずっと良かった。

考えることはお兄ちゃんのことだけ。
彼に会うまでは、彼を好きになるまでは、恋人なんていらない、男なんて…と思っていた私。友人たちが恋人欲しさにサークル、サークルと騒ぐ姿に、嫌悪感すら覚えていた私。
それが今ではどうだろう。何をしていても彼のことしか考えられない、自分こそ、本当につまらない女だと、不気味な笑いさえこみ上げて来るのだった。



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| 2017.09.25 Monday | ニタモノドウシ | comments(4) | - |
第六章 苦悩 〜目に見えない厚い壁〜

「外で待っててくれる?もうすぐ休憩だから、近くの喫茶店でお茶でも飲もう」
お兄ちゃんがそう言うので、由香は外に出て待っていた。
「ごめん、お待たせ。あそこ、いつも休憩のときに行く喫茶店なんだ」
しばらくすると彼が一軒の喫茶店を指刺しながら出て来た。それはコンビニの先から続く商店街の入り口にある、古びた喫茶店だった。
店に入り、お兄ちゃんはコーヒーを2つ注文した。
マスターは、コーヒーをテーブルに置く際
「休憩かい?」
と彼に声をかけ、由香には
「ごゆっくり」
と言って下がっていった。
由香はいつも通り、スプーンをソーサーの奥に置いてブラックで飲み始めた。お兄ちゃんは、砂糖を2杯、そしてソーサーに置かれた小さなミルクポットに入ったミルクを、全て入れてかき混ぜた。
それはいつもと何も変わらない光景だった。
しかし、その日の二人のあいだには目に見えない厚い壁があった。
話したいことがいっぱいあったはずなのに、彼を目の前にしたら、その壁が邪魔をして由香は何も口に出せなかった。
「なかなか連絡が出来なくて…ごめんな」
お兄ちゃんがそう言うまで、二人に会話は全くなかった。
「仕方ないよ」
由香は少し笑って言った。
「駅前だから、ものすごく忙しいんだ、朝も昼も晩も。レジに20人30人と客が並ぶなんて、ザラで。もう毎日てんてこ舞い。レジが切れたら品出しだろう?手が空くのはいつも真夜中で。そんな時間に電話するわけにもいかなくて」
「分かってるって。気にしないで。それより身体は大丈夫?無理してない?」
分かってる…いや、分かってなかった。何も分かりたくなかった。本当は『こんなに会えないほど忙しいならバイトなんてもう辞めて』そう言いたかった。
でもお兄ちゃんにとって、バイトは、遊ぶためのお金欲しさではないことを、十分知っていた。
言えなかった。何も。

「ごめん。もう行かなくちゃ。休憩30分しかないんだ」
そういってお兄ちゃんがすまなそうに立ち上がった。由香は結局、何も話すことが出来なかった。
「ごめんね。急に来て」
「ううん、嬉しかった。ありがとう。また来てよ。先に出るけど、お金は払っておくからお前はゆっくりして行けよ。じゃあね」
「いいよ、そんなことしたら折角のバイト代が…」
と、由香は言いかけたけど、お兄ちゃんは伝票を持った手を振りながら、小走りで行ってしまった。
レジでマスターにお金を払うと、こっちを指差してあの子はもうちょっといるからと言うようなことを言い残してお兄ちゃんは店を後にした。
その後ろ姿を見送った後も、由香はしばらくぼんやりしていた。
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。コーヒーはほとんど手つかずのまま完全に冷めてしまっていて、もう飲める状態ではなかった。
これからもこんな感じなのかな。もう以前のようには会えないんだな。
覚悟はしていたつもりだったけど、悲しかった。

カウンターの奥にいたマスターに頭を下げ、由香は喫茶店を出た。
車に戻り、彼の働くコンビニをのぞいてみた。帰ることだけでも伝えようと思ったが、コンビニのレジには、彼がさっき言ったように、多くの人が並んでいた。お兄ちゃんはレジを打ち、袋に商品を詰め、忙しそうにしていた。
もちろん、由香の姿に気づくこともなかった。
ドライブモードにシフトを入れ、ターンシグナルを右に出し、静かに車を発進させた。

それ以降も彼からの連絡はほとんどと言っていいほどなかった。
たまに店から電話をくれても
「ごめん、お客さん来たから。また電話するね」
と言ってすぐに切られてしまった。
由香の方もシフト表を見ながら受話器を手にするのだが、彼の忙しそうな姿を思い出すととても最後まで番号を押すことは出来なかった。

そんな日々が続いた。




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| 2017.09.20 Wednesday | ニタモノドウシ | comments(8) | - |
第六章 苦悩 〜会いたい〜

定期便のような、夜9時の電話がなった。
「あ、俺…」
「お兄ちゃん。バイト、終わったの?」
「うん、さっき。あの…ね、今日はおまえに謝ることがあって…」
「何?キスが下手なこと?」
「そういうことじゃ…ないんだ」
冗談が通じない様子だったので、由香はそれ以上、下らないことは言わなかった。

「実はバイト先の店長が、急に辞めることになって、俺に後を見て欲しいって言うんだ」
「え?それって店長になるってこと?お兄ちゃんはバイトでしょう?」
「うん。店長っていうか店長代理だよ。俺は高校の頃からバイトしていて、いろいろ馴れてるし。だから次の店長が決まるまで、店長代理をしてくれって」
「それじゃ、今よりももっと忙しくなるってこと?」
「そうなんだ。今までは週3日ほど夕勤と夜勤やってたけど、学校の講義がない時は昼も入るだろうし、夕勤ももっと多くなる。日曜日もほとんど入ることになると思う」
「そう…じゃ、会える時間、本当に少なくなっちゃうね」
その言葉に、お兄ちゃんからの返事はなかったので、由香は続けた。
「仕方ないよ。お兄ちゃんは学校もあるんだし、バイトと学校の両立だけでも大変だって、分かってるよ。バイト代が家計費になってることもよく分かってるから」
「ごめんな。会えなくても、電話はするから。バイト先の電話番号、教えておくよ。毎月のシフト表も渡すから、俺がいるときには店に電話してきていいよ」
「うん。分かった。身体に気をつけてがんばってね。無理しちゃ駄目だよ」
由香の精一杯の強がりだった。
本当は会えなくなるなんて嫌だと言いたかった。でも、言って困るのはお兄ちゃんだ。
由香は聞き分けのいい女を演じるしかなかった。

それからしばらくして、ポストにお兄ちゃんからの手紙を見つけた。
手紙には「シフト表です。電話していい日と時間帯に丸をしておきました」とだけ書かれていた。その短い手紙を由香は何度も何度も読み返した。
しかし、お兄ちゃんがバイトに入っている日も由香からは電話をしなかった。バイト中に電話したら、彼が困るだろうと思ったからだ。
そして、どれだけ待ってもお兄ちゃんからも電話はなかった。

とうとう、あの電話からひと月が経った。
由香は意を決して、お兄ちゃんのバイト先に行ってみることにした。
コンビニに着き、車を前に止めてしばらく眺めた。ウインド越しにお兄ちゃんが働いている姿が見えた。彼は、コンビニのマークが入ったエプロンをして、レジに立っていた。
由香は客のフリをして、店に入った。
レジを打ち終わったお兄ちゃんは、段ボールから商品を出して、棚に並べる作業をしていた。
「いらっしゃいませ」
由香を客だと思ったお兄ちゃんは、そう挨拶した。
そして、それが由香だと分かった途端、満面の笑みを浮かべ、はしゃいだ声で言った。
「あれ、どうしたの?」
「うん、ちょっと近くに用事があったから、寄ってみた。元気でやってるかなと思って」
用事なんてない。ただ、会いたかった。
でも本当のことは言わないでおいた。
彼の負担になりたくはなかった。



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| 2017.09.15 Friday | ニタモノドウシ | comments(4) | - |
第五章 幸福 〜下手くそなキス〜

小走りで帰ってきたお兄ちゃんは
「はい」
と言って、黒い缶コーヒーを手渡した。
「ありがとう。私のは必ずブラックだね」
由香は笑いながらその缶を受け取った。
「そ、ブラックコーヒーの格好いいお姉さんだからね」
「まだ言ってるの?それ」
「俺にとって、おまえはいつまでもブラックコーヒーの格好いいお姉さんだよ。俺はミルクと砂糖が入ってないと飲めないから、コーヒーは」
「子供だね」
由香はお兄ちゃんのおでこを指でつつきながら言った。
「だいたい、おまえはいつからブラックなんだよ」
つつかれた指を払いのけながら、お兄ちゃんが聞いた。
「高校の頃からだよ」
「可愛くない。女の子ってさ、オーレとか、カプチーノとかが好きなんじゃないの?っていうか、高校生でコーヒー好きってのもあまり聞かないよ」
「いいじゃない。そう言えば、高校の時につきあっていた男が、目の前で強烈にでっかいパフェ食べて、それ見て吐き気がしたことがあった」
「そんな男、おまえから棄ててやったんだろ?」
「ううん、棄てられた」
由香はちょっと肩をすくめて言った。
「嘘、おまえでも棄てられたことあるの?」
お兄ちゃんは驚いた顔で、由香の方を向いて聞いた。
「棄てられたっていうか、二股かけられてたんだよね。だからあんたなんかもういらないって言ってやったの。これって棄てられたのかな?私が棄てたことになるのかな?」
由香が笑いながらそう話した時、お兄ちゃんの目は笑っていなかった。そのまましばしの時間が経った。

「お兄ちゃん、どうしたの?」
そう聞くと、やっと我に返ったように
「あ、ううん」
とだけ答えた。
「今日、ちょっと変だよ」
「バイト入れすぎて、疲れたのかな…」
「ごめんね。疲れてるのに、こんな遠くまで連れてきてもらって」
「おまえがせがんだ訳じゃないでしょ?もうちょっとわがまま言ってくれたり、何かせがんでくれていいんだけどな…」
そう話すお兄ちゃんは笑顔だったけど、それはどこか無理をしているような、さっき夜景を見ていた時に感じた少し寂しげな、そんな顔に見えた。
「うん…」
由香は首を縦に振りながらも、今日出会った時からの、少し態度のおかしいお兄ちゃんを不安に思っていた。
それにわがままをいうつもりも、何かをせがむつもりもなかった。そんなこと出来ないと思っていた。
言わなくても、似たもの同士の彼は分かっているのだ。手に取るほどに。
由香の抱える、会えない寂しさも、会いたいと言い出せない強がりも全て。
分かっていても、どうしようもないこともある。
だからわざわざそんな出来ないわがままを言って、困らせたくはなかった。
いつでも彼にとって自分は格好いいお姉さんでいたかった。

この状態は、以前、似ていても駄目なこともあると、彼に説明した内容そのものだった。
お兄ちゃんは、由香の寂しさを知ってもどうにもしてやれなくて、きっと今、辛い思いをしているのだろう。
それなら、何かわがままを言ったなら、何かせがんだなら、お兄ちゃんは少しくらい楽になるのだろうか。

「じゃ、お願いがある…」
由香は真剣な顔で言った。
「何?」
「キスして」
いつもなら、由香がそんなことを言ったら、少し照れくさそうな顔をして「やっぱりそういうと思った」と言って笑うくせに、その時、彼は何も言わずにしてくれた。
その時、コンと音がした。
「今、歯が当たったよね?」
由香が聞くと
「わざわざ聞かなくていいよ。悪かったね、キスもまともに出来ない、格好悪い男でさ」
お兄ちゃんは、照れながら下を向いた。
「下手くそ」
茶化しながら由香が言うと
「下手で結構です!」
と言って、お兄ちゃんはやっと笑ってくれた。
そのくしゃっと笑った顔は大好きないつものお兄ちゃんの笑顔だった。

「さ、じゃ、帰ろうか。もう遅くなったし」
お兄ちゃんの言葉にうなずきながらも、彼ともっと一緒にいたかった。
もっともっとずっとずっと一緒にいたかった。
いつまでもずっと一緒にいて、あの下手くそなキスを受けていたかった。



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| 2017.09.10 Sunday | ニタモノドウシ | comments(4) | - |
第五章 幸福 〜一抹の不安〜

そうこうしているうちに由香の方も後期の講義が始まった。
夏休みだった頃に比べて会える頻度は確実に減っていたが、バイト終わりに迎えに来てもらったり、講義がない時間が合えば飛行機を見に行ったり、波の声を聴きに行ったりしていた。
サークルでも会っていたが、周りに気づかれないようにとお互い妙に避けてしまい、会話もままならなかった。
のんちゃんにも、相変わらずお兄ちゃんとのことは何も話していなかった。
心の中で『ごめんね、騙すようなことして』とは思っていたけど、言い出すことは出来ずに、時は過ぎていった。

「寒くなった頃、連れて行ってやろうと思っていたところがあるんだ」
お兄ちゃんがそう言った時は、すでに初冬と呼ばれる季節になっていた。
「寒くなったら?」
「うん、きっと空気が冷たい方が綺麗だと思うんだ」
そして連れて行ってくれたのは、由香が大好きだと話した街の夜景が一望できる場所だった。
そこは山の中腹にある橋で、観光地としても有名だったが、由香は今まで行ったことがなかった。
彼に手を引かれて連れて行かれて見た夜景は『何万ドルの夜景』とか、『宝石箱をひっくり返したような』という、そんな飾り言葉がぴったりの、いや、それ以上のものがそこには広がっていた。
「綺麗でしょ?」
お兄ちゃんの言葉にも、しばらく返事が出来なかった。
「ホント、ホントに綺麗」
そう答えるまでに、いくらかの時間がかかった。

「おまえだったら、ここにも来たことがあるかなとは思ったんだけど」
「ないよ、ない、ない」
「結構っていうか、相当有名だからね、ここ。前の彼だか、その前の彼だかと来たかなと思って」
「またそんなこと言うの?お兄ちゃんこそ、前の彼女だか、その前の彼女だかと来たの?」
由香は冗談交じりで言ったつもりだったが、彼の方はその時、言い訳をすることも、言い返すこともなかった。
何も言わず黙る彼の姿に、一抹の不安を覚えた。

「冬はね、空気が澄んでるから夜景も星も綺麗なんだよ」
お兄ちゃんは、さりげなく話題を変えた。
「そっか、だから寒くなったらって言ってたんだね」
という言葉への返事はなく、お兄ちゃんはまた、宝石箱をひっくり返したようなその夜景を見たまま黙っていた。
その横顔は、どこか寂しげに見えた。

「さ、行こうか。身体冷えてきただろ?寒いもんな」
「ううん、寒くないよ。私は寒いの好きだし。家でもね、暖房器具は使わないんだ。私の部屋には、こたつとかヒーターとかストーブみたいな暖房器具は置いてないの。だからそれを知ってる友達は冬には絶対私の家には遊びに来ないんだよね」
雰囲気を変えたかった由香は少し笑いながらお兄ちゃんにそう話した。
「いつも頭に血が上っていて暑いんだな」
「もう!そういうこと言ってるんじゃないでしょう?」
お兄ちゃんの口から、つまらない冗談が出たことで、さっきの一抹の不安は少しだけ和らいだ。

小一時間も眺めていたら、だんだん人も増えてきたので、二人は車に戻ることにした。
「俺、缶コーヒー買ってくるよ。先に車に戻ってエンジンかけておいて」
そういってお兄ちゃんは、車の鍵を由香に渡して、自販機の方に走って行った。
『私が彼を思う気持ちは底なしなのだろうか。どこまでいけばその気持ちは最終地点までたどり着けるのだろう…』
走って行く彼の後ろ姿を見ながら、答えも出ない、そんなことを考えていた。



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| 2017.09.05 Tuesday | ニタモノドウシ | comments(6) | - |
第五章 幸福 〜十分過ぎる幸せ〜

元気になったよという連絡がお兄ちゃんからあったのは、彼を車で送り届けてから1週間くらい経った頃だった。
「この前は悪かったな。突然呼び出して、家まで送ってもらって。もう風邪も完全に治ったみたいだよ。ありがとう」
「気にしないで。本当にもう大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫、あのくらいの風邪。それから、来週の土曜日空いてる?この前のお礼にいいところ連れて行ってあげようと思って」
「確かバイトはまだ入れてないと思うけど」
「夜だけど大丈夫かな?あ、でも夜って言っても、この季節なら夕方の6時頃でも大丈夫かな」
お兄ちゃんは電話の向こうで、なにやらつぶやいていた。
「じゃ、4時頃迎えに行くね」
そう言って電話は切れた。

約束の日の夕刻。
車は、東西に流れる国道を西へ走った。
1時間ちょっと走ったところで国道を逸れ、途中から狭い道に入り、舗装された道から、土手沿いの砂利道を進んだ。少し広くなったところで、お兄ちゃんは車を止めて言った。
「着いたよ」
もう辺りは暗くなっていて何も見えなかった。
「何があるの?」
由香はお兄ちゃんの膝枕から頭を上げて聞いた。
「聞こえない?あの音」
お兄ちゃんはサンルーフを手で押し上げながら言った。
彼の言葉に、由香は耳をすませた。遠くから聞こえる音は、だんだんキーンというけたたましい高い音に変わっていった。
「飛行機?」
「そう、向こうの空見て。飛行機が帰ってきただろう?で、車の後ろ側を見てみろよ」
お兄ちゃんにそう言われて振り返ると、そこは滑走路だった。
車を止めている土手をかすめるようにして飛行機が滑走路に入ってきた。頭上、それもけっこう近いところに飛行機が飛んでくる。
滑走路にはすでに電気が点っていて、その赤や青や黄色に輝く光のラインはとても綺麗だった。
「すご〜い。綺麗」
しばらく声も出なかった由香は、目を丸くしながら言った。
「だろ?音もいいけど、夜の飛行機のライトや、滑走路の光も、すごく綺麗だろう?飛行機が飛んでいくところとか、滑走路だったら、空港から見えるところがあるけど、飛行機が真上を飛んでいるのなんて、この辺りではここからしか見られないんだよ」
「すごい、すごい。本当にすごいよ、お兄ちゃん。この前迎えに行ってあげたお礼には、もったいないよ」
「じゃ、おつり返してね」
そういって、お兄ちゃんは軽く口づけた。

二人で滑走路から飛び去る飛行機、空港に戻って来た飛行機を、何機も何機も見ていた。
夜の9時頃が一番ピークだというので、その時間までずっと。
車のルーフを開けて、シートを倒したまま手を繋いで、ずっと空を見ていた。
そこに会話はなかったが、由香は十分過ぎる幸せを感じていた。
『飛行機ってこんなに綺麗だったかな、こんなに素敵だったかな』

しかし、それは横にいたのが彼だったからであって、他の人とその場所に来ても、あれほどの感動はないだろうということに、由香は気づいていた。



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| 2017.08.30 Wednesday | ニタモノドウシ | comments(6) | - |
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